群淘汰をしているのは遺伝子ではなくミーム

 進化論の歴史には「群淘汰(グループ淘汰)」という有名な躓きの石がある。個体ではなく群れや種の利益のために形質が進化するという、「種の保存のため」式の考え方だ。

 理論的には1960年代か70年代あたりの時点でほぼ完全に否定が確定しているのだが、いまだに多くの人が平気で「種の保存のため」と言っているし、それどころかE・O・ウィルソンのような明らかに頭のいい大物学者でさえ、死ぬまでこの考えを放棄できなかった。

 素朴な群淘汰の発想が、理論的にあからさまに間違っている割にはなかなかなくならないこと自体には、まったく疑問はない。人間は、まさに群淘汰としか解釈できないような行動や活動を、実際にしばしばとっているからである。殉教でも特攻でも自爆テロでも、個体の遺伝的利益ではどう考えても説明のつかない自己犠牲の実例は、歴史にも現代にもいくらでも観測できる。

 それが間違っているわけではないにしても、微妙な修正が必要ではないかと、比較的最近(といってももう10年やそこらは経っているが)思い始めた。よく考えれば、というか、そんなによく考えるまでもなく、そのナイーブ群淘汰そのもののような動きをしている、ないしはさせている主体は、ホモサピエンスの遺伝子ではない。人の群れの中のミーム、ないしミーム複合体である。

 宗教も国家もイデオロギーも、まさに集団を単位として発生し、増殖し、競争し、淘汰されている。宿主である個体に遺伝的な損をさせてでも自分のコピーを増やすミームは普通に存在できる。群淘汰的な現象は幻ではなく、淘汰されている単位を取り違えていただけなのだ。

 だから、ウィルソンを含む大勢の頭のいい人たちが群淘汰をなかなか捨てられなかった最大の理由は、彼らがその直観を形成した時代に、ミーム論がまだ存在しなかった(あるいは提唱後も十分に受容されなかった)せいではないかと思う。

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