写真のような絵のパラドックス

 一見投資と関係ない話をしよう。以前、投資TLで、このようなニュースが話題になった。

 知的障害や精神病の人が写実的で精密な絵を描くことがある、という話は、著しく直感に反し、印象に残り、政治的にも問題ないか、むしろ正しそうに見えるので、話題性があり、かなり前から存在する。

 フィクションの世界でも、たとえば映画『羊たちの沈黙』では、ハンニバル・レクターが、写真のように写実的な絵を記憶だけで描いているのが、彼の異常性と天才性を表現するエピソードとして使われていたおぼえがある。

 私は一時、そういう話は全て、話題性を狙ったペテンか、でなくとも、まれな例外(単に元から絵が上手い患者だったとか)に、意図せざる歪曲で尾ひれが付いただけではないか、と疑っていた。

 だがそうではない。何かが欠損したり損傷したりすることにより、何かの能力が増す(ことがある)というのは、人間的な直感には反しても、あり得るどころか、複雑かつ高度なシステムには必然的に生じる性質なのだ。

 私たちは普通、写真のような絵を「上手い」という一方、幼児のような、例えば象を描いたら胴から鼻と足と尻尾が6本放射状に出ているような絵を「下手」だという。別にそれが悪いというわけではない。もちろんある文脈では当然の、正しい評価だ。

 だが、別の観点では違う。ひとつ否定できない事実を考えよう。現実の象は、いついかなる状態で観察しても、幼児の絵のように見えることなどない。そして、魔法ではないのだから、存在しないものが無から沸いてくることはない。

 幼児の「下手な」絵は、少なくとも幼児がそれによって表現しようとしている像は、その脳内で、とてつもなく高度な、Googleの最新技術でさえもようやく始まったか否かというほど高度な、情報処理の結果として作り出されたものだ。

 対して、写真のような「上手い」絵というのは、単に網膜に来た光をそのまま再現したに過ぎない。別に悪いと言っているわけではない。それが写真というものであり、そうであってくれないと困る。しかし、原理的には200年前のカメラにだってできることだ。

 要点は、情報処理の高度さは、直感的な上手・下手とは一致せず、逆ですらありうる、ということだ。

 ここまでの議論によって、病気や事故によって写実的な絵を描けるようになる(ことがありうる)ということは、すでにそれほど神秘的なことではなくなったはずだ。

 幼児のような絵は普通誰でも描ける。そして、その幼児のような絵を作り出すまでには、脳のどこかに、目から来た写真のような像を、保持・加工するプロセスが、必ず存在するはずなのだから。

 何かの病気や事故によって、その加工のプロセスが、機能低下ないし不全を起こし、写真のような像(に近いもの)が表に出てくるようなことがあったとしてもおかしくない。

 それが本当に起きることかは断言できなくても、少なくともそれが起きても魔法ではないことは断言できる。

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