彼は彼なりに努力していて彼なりに勉強しているんだろうけど、凄い人と比べたら勉強量は皆無だと思うし、努力がほぼゼロの僕と比べても勉強量で劣ると思うんだ。勉強時間だと凄いのかもしれないけど。
— 亀吉@駁尊 (@ichonan) 2017年7月9日
「彼」が誰のことかは「おそらく」ぐらいまでしかわからないが、今回は、特定の誰かとは関係なく、このツイートから連想した一般論として。
最近よく「一万時間の法則」とか言われる。俗に「天才」と呼ばれるような才能は必ずしも天賦の才ではなく、時間をかけた反復練習によって、ほぼ何でもほぼ誰でも身につけられるのだ、というようなことが言われる。
おそらく大枠において、この概念は事実として間違っていないし、努力目標としても有益だと思われるが、ひとつ重要な前提が抜けている。間違っているというのではなく、日常的には当たり前過ぎて、わざわざ意識されないという意味で。
そもそも「やることに意味がある」という前提だ。
ノイズを一万時間見続けても「ノイズに詳しく」はなれない。詳しくなるべき情報は含まれないからだ。それがノイズの定義だ。
実際にホワイトノイズを一万時間見続ける人はおるまいが、ノイズ(同然の情報)と(情報理論でいうところの)情報を見分ける能力がないと、それ同然のことをしてしまうことはありうる。
たとえば、ある種のテクニカルの「手法」の探求は、それに近いのではないか、と私は疑っている。全く何の意味も持たないというよりは、他人やAIを含めた市場平均を上回って、かけた労力をペイすることができない、という意味で。
しかし、情報とノイズ、意味のある勉強と無意味な勉強を見分ける力は、どうやって身につければいいのか? 鶏が先か卵が先か的で、簡単な答えはないが重要な問題である気がする。
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