私はずっと「精神の常在細菌叢」としての伝統宗教の役割がもうちょっと評価されるべきと感じ続けてきた。ドーキンス的な新無神論に不満を持ってきた。
もちろん具体的なイシューについてガチガチの宗教保守派とそうした新無神論者の意見が対立するときは0対100でそちらに付きたくはなるのだが。
彼らは一般に、家族・子孫びいきやインセストタブーやら様々な政治的に重要な問題について本能≒進化による人類の動物的限界を認め、むしろそれらを無視したフランス革命・共産主義といったものを批判したりもするのに、宗教に関してだけはその適用を避けている、あるいは避けてきた。
そういった個人的どころか集団的な部分にまで進化心理学のスパンが及ぶというのが、まだ比較的新しい考え方だから仕方がない、というのはあるとしてもだ。(もちろん私はもう当たり前だと思っているが。)
伝統宗教が宗教戦争やジェノサイドの要因となったとか、女性や性的少数者への迫害に繋がったとかいう話を(それらはもちろん本当だが)列挙すれば、なぜか全否定してしまってよくなると思っているようだ。
そうしたい気持ちは十分に理解できるのだが、少なくとも他の話題と同じ基準が適用されているようには思えず、新無神論の属する科学・啓蒙主義的・自由主義的コミュニティにとって都合がいいか悪いか、という恣意的な基準で扱いが分かれているだけであるように思える。
今日時点ではもはや全然新しい考えではないが、私が言いたいのは、今日いわゆる「党派的」とか「カルト的」とか「非科学的」とか言われるあらゆる思考形態は、単に進化環境におけるホモサピエンスの正常な精神活動だということだ。もちろん、だから今日の環境でもそれでいいと言っているわけではまったくない。むしろ逆だ。
進化のせいだから仕方ないんだという、あからさまな自然主義的誤謬を避けようとするあまりに、それを糊塗したり目を背けるのを止めて、それを認めた上でどうするか考える時期に来ていると思う。
今日、私利私欲の存在を当たり前に認める資本主義が、共産主義に比べて道徳的にも正当と思われているように、党派的カルト的非科学的な基本的欲求の存在と、それをより矯正された穏便な形で満たす必要性を認める体制が、今日時点で裕福な知識階層で採用されている体制よりも、総合的に道徳的にも優れているものと見なされるようになっていく可能性はそれなりに高いと思う。
「精神の常在細菌叢」のたとえに立ち戻るなら、人体から常在細菌叢を除けば、無菌の体になるのではなく、何でもない細菌に日和見感染して病気になるように、伝統宗教の存在する社会から、単に伝統宗教を取り除けば、無神論者の社会になるのでなく、しょうもないカルトの跋扈する社会になるということだ。
実際には、今日まだ伝統宗教の影響は「取り除かれた」という程には減っていない。しかし、この描像は、たんなる比喩や言葉遊びではなく、大小カルトの跋扈、労働者の疎外感、いわゆる生きづらさ、といった今日の様々な新しい(?)社会問題について考える上で価値のあるモデルであると、私は考えている。


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