トランスジェンダー選手のスポーツ問題はポリコレの暴走で片付けるのは簡単に思えるが、意外と深い。そもそもスポーツとはなんぞやという話に繋がる。なぜスポーツというものがって、これほどの注目と金を集め、ある活動がスポーツであって他の活動、昼寝やおやつを食べることがスポーツではないのか?
「人体がすごいパフォーマンスを繰り出すのがカッコイイのは当たり前じゃないか?」なんて言ってもだめだ。だったら大抵のスポーツの男女別の競技なんて存在しえず、みんな男子の競技しか見たがらないはずだ。ドーピング検査なんて必要なくて、みんな薬物・人体改造やりまくりのスーパープレイを見たがるはずだ。
じゃあ結局、どんな活動がスポーツで何がそうでないのか、何が公正で何が公正でないのか、それを最終的に決めているのは何なのかというと、現在受け入れ可能な答えはひとつしかないように思われる。
人間には他の人間の(とりわけ配偶候補としての)資質を見極めたい本能があり、スポーツはその判定の際にハンディキャップシグナルとしてとりわけ優れた活動であり、その判定を不正確にしたり不可能にしたり無意味にしたりすることが(スポーツ上の)不公正とされるということだ。
これは性(セックスかジェンダーか云々をいったん置いて)と完全に独立しては、そもそもスポーツの概念自体が意味を成さない可能性が高いということを意味する。
トランスジェンダー選手のスポーツに意味がないと言っているのでない。そもそも従来の男女別の競技という概念に意味がある(と見なされている・きた)のは、男性と女性がいて、男性と女性が(とりわけ配偶候補として)評価する相手も評価基準も同じではないという前提に基づいているということだ。
そのような従来自明と思われていた、実際には単に多数派であるだけの前提を疑うことは、当然正しく意義もあることだと思うが、それをするのであれば、従来の男女別競技という枠組みをそのままにしたまま、特定の選手をそのどちらに入れるかということ(その理由が性自認であれなんであれ)だけを論じても、絶対に意味のある結論には至りようがないということだ。
そしてこの先どんな議論が行われようが、今の段階ですでに断言できることがある。今回のボクシングの選手のような稀な例外的な選手の扱いに、大多数の一般人が納得できる(≒本能的に、進化心理的に「自然」な)「答え」が用意されている可能性はないということだ。
たとえどんな価値観の元であれ、結果的に「公正」とされる解は、ものすごく人工的・科学的・数学的で複雑なものになるだろう。
そして、この先については断言できるほど自信はないが、やや想像をたくましくすれば、これが長期的にもたらす結果は、科学の論文のように権威は高いが、ルールやレギュレーションが難しくて一般人の興味は引かず、直接には儲からない学究的公的(?)「スポーツ」と、曖昧でいい加減で権威はないが、本能には合致し金は動く娯楽的私的(?)「スポーツ」への分化だろうと思う。
いずれ名前も別になるのではないだろうか。たとえるなら、現代の人間は、(グレーゾーンはあっても)「スポーツ」と「エクササイズ」を区別しているような気がするが、ちょっと昔の人はしてなかっただろう、というのと同じような意味で。


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